シンポ

●手書きメモをもとにしているので、誤記があるかもしれません●



シンポジウム「映画とポストコロニアリズム」(11月27日)


【発表者と報告タイトル】
丸川哲史明治大学政治経済学部、日本文学研究、著作に『台湾、ポストコロニアルの身体』『リージョナリズム』『帝国の亡霊――日本文学の精神地図』)
小林よしのり台湾論』騒動を読み解くために」

韓 燕麗(京都大学博士課程、映画研究)
「香港映画における言語混交の問題」

門間貴志(明治学院大学教員、映画研究、著作に『アジア映画にみる日本』Ⅰ〔中国・香港・台湾編〕、『アジア映画にみる日本』Ⅱ〔韓国・北朝鮮・東南アジアほか編〕、『欧米映画にみる日本』)
「抗日映画の意味するもの/韓国と北朝鮮

崔 盛旭(明治学院大学博士課程、映画研究)
在日韓国人のいくつかの表象――映画『京阪神殺しの軍団』を中心に」


「東アジア、ポスト・コロニアル、映画」
司会 : 斉藤綾子
コメンテーター : 増田幸子(立命館大学アメリカ映画研究、著作に『アメリカ映画に現れた「日本」イメージの変遷』)
門間貴志/韓燕麗/崔盛旭/丸川哲史(当日に参加決定)


関連書籍(シンポジウムがもとになったもの)
四方田犬彦斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画――ホモソーシャルな欲望』平凡社、2004年



【詳細】


丸川哲史小林よしのり台湾論』騒動を読み解くために」

  • 台湾(人)にとって旧宗主国の人間である〈私〉が、戦後50年以上をへて旅行で台湾に行くことの意味とはなにか。

 台湾人と日本人それぞれに想起される「戦中の台湾」を理論的に整理する必要性がある。

 人口比でいえば、日本と台湾でほぼ同じくらいの冊数が売れた。著書で小林は、「台湾にいる日本語世代が語る『自発的な従軍慰安婦』をマンガとして」描いて、台湾では社会問題になった。
 まず、人権問題の観点から『台湾論』への抗議や不買運動が展開された。その後、台湾の各政党の主張に取り込まれながらそれは語られ、政治問題へと発展。小林叩きが一転して独立派叩きの様相を呈するようになった。また、逆に購買運動や無料配布をおこなう派閥も現れて、内部対立が激化した。
 小林が日本の立場から台湾を切り取る(表象する)ならば、私(丸川)は台湾や中国「から」日本を考えていく。たとえば、台湾映画が日本人を選ぶとでもいえるようなとき、そこにはどのような力学があるのか、と。

  • 映画の読み解き

1)2・28事件をあつかった映画
 1945年以前から台湾に住まう人々とそれ以降に大陸から渡ってきた人々との対立を描いた。この映画のなかで、日本語を話す台湾人が登場する。そのことで「日本」を識別しようとしている。

2)大陸から台湾に来た家族が、抗日戦争8年をへて、なぜ日本の演歌を聞かなくてはならないのかとぼやくシーン。

3)日本式の住居に住みながら部屋の使い方がわからず、押入をベッド代わりにしているシーン

 総じて、台湾人の日本に対するノスタルジーと読めるとともに、日本の支配の残余を見いだすことができる。

  • 日本人が台湾(の映画)を語り、理論的に介入するときにかかる負荷はどのようなものかを明らかに必要性があるだろう。たとえば、1900年代生まれ(大陸・抗日)と1920年代生まれ(親日)に対立があるように、ある世代だけクローズアップしても意味はない。小林の描く世代のもつ、ほかの世代との抗争(背後/語られぬもの)にも配慮するべきだろう。
  • 目の前の映画(テクスト)に飛びつくのではなく、そこに登場する人々が絡め取られている世代や人間関係、歴史の重層性へと目を向けていかなければならない。語られぬ歴史や、台湾の言説・表象を語るさいの植民地的無意識をどのように視野に入れていくかが鍵である。


●韓 燕麗「香港映画における言語混交の問題」
レジュメがあったため省略


●門間貴志「抗日映画の意味するもの/韓国と北朝鮮

  • 世界各地で撮られた「抗日映画」の定義

 プロパガンダだが、3つに分類できる。1つめが、悪の日本に打ち勝つ「われわれ」を描いたもの、2つめが、日本の軍事的・政治的・経済的支配からの解放の喜びを描いたもの(この場合、純粋無垢な「われわれ」が登場する)、3つめが、日本を徹底的に叩くものである。韓国や台湾では「われわれが勝利した!」というメッセージが多用され、北朝鮮や中国では「われわれが国を作る!」というメッセージが使われた。

 ソ連スターリンやドイツのヒトラー(に似た役者)は1930年代から40年代に「カリスマ」としてプロパガンダ映画に登場していたが、東アジアでカリスマが役者に演じられるようになるのは、80年代以降だ。

  • 韓国の場合

 1940年代から50年代にかけては、安重根ら独立闘争の英雄を描く映画が多かった。60年代は、戦後指導者(たとえば李承晩)の戦中期の活動に焦点を当てたものが抗日映画だった。70年代以降、映画のスペクタクル化が進行して、物語の背景として日本の支配があつかわれても、抗日の姿勢は薄れていった。また、「良心的日本人」が登場する映画も増えて、抗日映画の変化が明確になった。
 2000年代になると抗日映画を撮りえなくなったので、韓国映画はSFとして抗日を描きはじめる。たとえば『ロスト・メモリーズ』(2002年)は、韓国がいまも日本の支配下にいるという状況を設定して、韓国人がその世界から脱走しようとする物語だ。『ロスト…』の登場人物には、抗日運動の英雄を模した者がいて、観客は一目で誰をアナロジーしているのかがわかるようになっている。
 一方で、日韓併合前の韓国で日本人と韓国人が対立したときに、その決着は野球でつけるという「健全な」映画が配給されるようにもなった。
 つまり、韓国では、抗日映画の内容が挫折から希望へと転換してきているのだ。これは1980年代の香港映画の地位に(ようやく)到達したことを意味しているといえるだろう。

 1970年代から、抗日映画の成功を確信し、80年代には「日本に勝ったわが国」物語、「金日成」物語が多く撮影されるようになった。ただ、90年代初頭の金丸信訪朝により一時態度を軟化させた。しかしそのさいも、日本に自国を褒めさせるという体裁をとった。

・現在の韓国映画ブーム(力道山関連映画も含む)を解読するうえで、抗日映画の系譜という観点からそれが可能ではないか。



●崔 盛旭「在日韓国人のいくつかの表象――映画『京阪神殺しの軍団』を中心に」

  • 在日(映画)の位置

 日本は、劣っている国としての朝鮮とそこにすむ人々というまなざしをもち、朝鮮は、冊封体制下の和冦という劣等な国として日本をとらえた。その狭間にいて双方から差別を受けた(/ている)のが在日朝鮮人である。
 1975年ごろは、在日2世が日本に編入しようとしていた時期で、差別も肥大化していた。たとえば、日立製作所就職拒否事件(在日韓国人の青年が日立製作所を相手取り、採用内定取り消しの無効を求めた裁判で、横浜地裁が原告勝訴の判決を言い渡した。原告は、日本名で受験したことなどを理由に内定を取り消されたが、これは民族差別だとして70年に提訴していた)が起こったのもこの時期だ。マイノリティとしてのアイデンティティの問題が顕在化してきていたといえるだろう。
 在日は、日本において異人(異人論@赤坂憲雄)として扱われ、スティグマを背負わされていたために、日本人とは徹底して差異化されていた。そのステレオタイプな表象が見て取れるのが、『京阪神殺しの集団』である。

  • 視点

 この映画は、在日社会(という存在)のシークレット・メッセージ化といえる。映画の前半では異人としての在日を見せながら、後半ではディアスポラとしてのそれを描写している。全体から確認できるのは次のような点だ。
 +異質性を見せながら同質性を確認させる
 +日本における在日の立場を訴える
 +移動によってだけ存在を許される在日
 +在日することから在日であることへの移行

 在日は旧宗主国の言葉を使って批判を展開している。そこに「いる」のに、不可視化されていることへの着目。名指しと問いかけの問題。