歴史

「歴史は解釈論議だから、自分の描きたい歴史『から』既存の歴史を読み解き、もう一つの歴史『へ』とつなげることが重要なんだよ」

という言葉をもらった。複雑な気分だったが*1、同時に、ある学会である大学教員が「(歴史修正主義の史観から)歴史を奪い返すことが重要だ」というようなことを言っていたことを思い出した。

自分の論文では、できるだけ「当事者」たちの発言や作品に寄り添いながら、しかし「内在的に/内側から」彼らの行為(おもに発言)の矛盾点を指摘して、現在流通している既存の史観に1つの解釈のヴァリエーションを提供できればいいと考えている。しかし、その「内在的に/内側から」というのがくせ者で、自分で書いていて意味がよくわからない。

その「わからなさ」は「主観/客観」の問題に行き着くと考えているが、それは言説分析(のようなもの)にはついてとくにまわるもので、さしあたりM・ウェーバーの議論を念頭におきながら江原由美子や中野敏男の論文の書き方(振る舞い)を意識して入るが、彼/彼女らの議論を自分なりに解釈して自分なりの道具立てにできているかははなはだ疑問だ。疑問だが、論文は書き進めなければならない。

「拠って立つもの」がないと、論文は書きにくいと実感するな、ほんと。

*1:歴史主体論争や戦後責任論などを読んでいると、だ